小屋について
埼玉県の荒川河川敷で車を走らせていたときに、小さな小屋が一瞬目に飛び込んできた。その小屋の佇まいがなぜか心に引っ掛かり、来た道を引き返し、車を降りシャッターを切った。2017年6月のことだ。
それ以来、仕事で遠出をしたときなどは、最寄りのICから高速道路に乗って帰途につくのではなく、車も人もいないような旧道や農道に一度分け入って、小屋を探しながら帰ってくるようになった。列車の車窓から見た小屋を撮りに足を運んだこともある。小田原市のみかん畑の小屋は新幹線の車窓から。小樽市の番屋は高校生の時に函館本線の車窓から眺めていたのを、この撮影を始めてから思い出した。
そうして集めた小屋たちの写真が、このサイトです。
年を経るごとにすべてのものは劣化していく。
それを受け入れられず抗うものも沢山あるなかで、小屋は静かに受け入れて、そこにいる。陽に当たり、雨風に晒され、ときには雪に埋れながら、徐々に古び朽ちていく。
小屋を前にして、しかしこれは劣化なのだろうか、という問いが頭に浮かぶ。
もし「経年優化」という言葉があるのなら、年を経て味わい深く佇む小屋に当てはめてもいいのではないか、と。
小屋の担う役割はただひとつ。
「屋外に建てられ、ものを収納し、守ること」。
古びていくなかでも、自分の仕事を最後まで全うする姿勢。
仕事の手を止め視線をこちらにチラッとやりながら「自分はこれしかできませんから」とボソッと答える職人のようだ。そしてすぐに仕事に戻っていく。カッコよすぎる。
私たちの身の回りにあるもの(例えばコップ、椅子、ペン、冷蔵庫、家、車、ガードレール、自動販売機etc)はすべてデザインされている。街だってデザインされているし、スーパーで売っている野菜も今では遺伝子組換えという名のデザインを施されている。
そんななかで、小屋はデザインから自由な存在だ。すべて一点物で同じものはない。そしてどこかアバウトで、ゆるい。
そうしたものが身近にさりげなく存在してくれる。どんな時代でも、これはとても大事なことだと思う。
小屋の写真を撮るときに、その場に所有者が居合わせた場合、もちろん一言お断りをしてから撮影する。最初は怪訝な顔をするが、私が小屋の写真を撮って歩いているのだというと、快諾してくれる(多分呆れながら)。その表情はなんだか嬉しそうで誇らしげだ。そして小屋の機能を色々と教えてくれる。小屋は持ち主にとって一緒に歩んできた家族のようなものなんだなと思う。
そのようにして貴重な室内の写真も撮影させてくださった方々には心から感謝申し上げます。